第九回「ビデオマンザイ part7」

ピンって言葉をご存知だろうか?
ひとり芸をする事を芸人用語でピンと言う。

ピンといえば思い浮かべるのが、「ピンからキリまで」って言葉だ。

このピンと言う言葉はそもそもはポルトガル語だそうだ。
西洋ではピンからキリまでの
ピンは一番上とみなす。で、キリは下々と考える。
日本では本来逆の意味でピンは一番下と言う意味であった。
キリは上に持ってきて様々といった考えであったが
現代は西洋同様ピンは一番上といった考えである。
でも僕は本来の日本の考えである。

ピンの言葉の考察はこのあたりにして
僕はピンでやって行きたくてこの世界に入ってきたのだ。
そこに戻ったと言うものの
資本主義の会社にとって芸人は商品。
漫才なら売れる商品であるがピンになった僕は商品価値はなかった。

そんな時に色んな方からアドバイスをいただいた。
もう一回漫才やったら?

くどく書くようだが
漫才をやると言う事の難しさはもうひとりの人間と一心同体になると言う事である。
結婚に近い部分でもある。
ましてや、漫才コンビを組むといった覚悟も、また
解散といった形もないまま趣味の延長のように漫才をやっていた自分にとって
漫才をまたやっていくといった覚悟は到底無理である。
また前の相方に失礼でもある。

最近では幼なじみのコンビが多い。
以前はこの世界に入ってからコンビの相方を見つけるといった
仕事スタートのコンビが多かった。
幼なじみとこの世界にはいってからのスタート。
この差は大きい。
何が大きいかと言うとこの世界に入ってからのコンビは
仕事なのでお金でつながるのがいい。
幼なじみはお金以前につながってるので大げさに言うと
運命でつながっている。
兄弟のコンビなんて言うのはまさしくそうだ。
運命は自力や努力ではどうにもならない。
与えられた運命をどう自力でこの世界をやっていくか。。
僕には幼なじみとコンビを組むや兄弟とやるといった
運命のつながりの運はない。
今後はお笑いをお金でつなげていかないといけないのだ。

じゃー相手にとっても僕はお金になるような存在なのか?
といったところである。

自分で言うのもなんなのだが、
僕はややこしい性格の持ち主である。
これはいい意味でも悪い意味でもややこしい。
若い頃はそんな自分が嫌いであった。
が、今となってはかわいいもんだ。
「僕はややこしい」と言った事を簡単に言えるようになったのだから。
何事も自分との折り合いがまず難しい。
自分の中にもうひとりの自分がいる。
熱くなった時には冷めた自分。
冷めた時には熱い自分。
いやもっといったら多様する自分がいるのだ。

そんな自分の中の自分と折り合いがつなかいまま
他人と折り合いがつくはずがない。

自分が録画した自分を見ながら思う日々であった。

ビデオ漫才はそんな自分との折り合いがヒントになったのだろうか?
なぜビデオ漫才の発想が出たのか、はっきりとした記憶はない。

相方をモニターに映したらしたら簡単やん。と思ったのか?

自分の相方はもうひとりの相反する自分で十分と思ったのか?

ネタ帳にビデオ漫才。
ぜんじろう一号、二号と台詞わけをし、ネタを書き始めたのである。